苔の私日記 その1
2004.8.28〜2004.9.10



ヒトには履歴っていうものがあります。

生まれて、生きてきた今日までの痕跡です。
お母さんのお腹から出てきて、これ誕生です。
しばらくして名前がつけられます。
何年何月何日、何処何処で生まれて名前は○○・・・
それから幼稚園、小学校、中学校・・・
高校、大学・・・いちおう社会人となって仕事歴・・・
これらはみんな外側のことですね。

     

いま思ってるのはそういう外見の履歴じゃなくて、生まれて今までず〜っと続いている内側の意識、気持、感情の履歴のことなんです。

ぼくがヒト個人「自分」ということにこだわる由縁はここなんです。この履歴は自分にしかわからないんですね。この自分しかわからない履歴を残していく手段が、文学や写真というツールを使って残していく芸術行為なんです。

痕跡を残すとでも言ったらいいのかも知れません。
人間の歴史といってもここでは、心の成熟の歴史、心の進化。
ケン・ウイルバー(1949年米国生)という人が「進化の構造」(1995年)という大著を残していますが、心、魂の進化を考えています。(本はぼくの手許にありますが未読です)

現代科学の領域では身体の不思議を解明する研究が進められています。ヒトゲノムプロジェクト、遺伝子解明なんかもう終わりましたね。(この分野ぼくは素人です)

こんなことから、ぼくは、外面の履歴じゃなくて内面の履歴をどう残していくの、ってゆうのがテーマになっているって判断してるんです。
それから心理学のところですね。
最近のぼくの興味はユングの心理学です。
トランスパーソナル心理学につながってくるんです。
(興味あります。でもぼくは素人です)

こうした文化土壌の上にいて、自分とは何か?というテーマが立ち現れてくるんですね。
パスカルがパンセという覚書を残しています。これは今から350年ぐらい前、17世紀中葉のことです。人間は考える葦である、という有名な句を残しているそのヒトですね。

人間存在、自分存在、その不思議を解き明かしていくための痕跡を残していく・・・
私日記が、そのような文脈の上に成り立っていくことを想定しているんです。


じゃ〜わたしの履歴はどうなんじゃ

1946年4月28日京都に生まれる。
母の名はゆき枝、父の名は清三。

1946年4月とゆうと戦争が終わって8ヶ月後です。
お母さんのお腹に10ヶ月10日いたとすると、
わたし生命の発生は1945年6月18日?となる。

戦争末期真っ只中です。
じゃろ!人間のセクス欲動はどんな状態でも男と女が一緒に居ったら発生する。

新居は中京区壬生(みぶ)。朱雀第一小学校の前、三条商店街の近くです。和漢薬のお店をやっていました。
これは私の遠い記憶に刻まれています。元花屋さんの家で地下室がありました。その地下室は暗くて恐怖を誘ったですね、幼ごころ、階段を下りて部屋に入るとつきあたりの壁に窓があった。そこから光が入ってきていました。

地下室の記憶は暗闇を暗示しますね。それはわたしのセクシュアリスの遍歴にきっと暗示をかけていたのかも知れないですね。
わたしは変態?
京都生まれ、京都育ち、ただし京都弁が喋れない紳士です。
どちらかいうと硬派で通してきてるようなんですが、そればっかりじゃないですね、軟わらかいのほうが多分にありますね。性格も軟わらかいですね。

まあ、苔の私日記、第二日目はこんなとこかな〜〜

苔の私日記は、私の記憶回路です。
生まれて死んでいく人間の生命現象についての興味、関心ごとです。
自分というものを自分が検証するためには、記憶の襞を紐解いていく必要があると思っています。
それは内に向う自分の検証です。
さて、その3回目の今日は2004年9月1日です。

自分が生まれた日の記憶はありません。
そりゃそうなんです、だれもが記憶ありません。
三島由紀夫というヒトは、産湯の縁をみた記憶があると書いたようですが、それは事実ではありません。

でもね、明確な記憶イメージはないけれど、生まれてすぐにオギャアとなく習性なんかは、蓄積された集団記憶の本能なのだそうです。
そうすると、私が生まれたその身体には、本能としての、生きていくための要素が備わっていることになります。
生まれた日のことを、その後に聞くことでイメージしていきます。そういうことでいうと、私が生まれたときの記憶はフィクションすることができますね。

私が生まれた場所は、現在住んでいる場所です。
その頃は自宅分娩があたりまえのことだったんですね。
産婆さんが母の介助をしたんです。生瀬さんという産婆(助産婦)さんです。
その当時の住所、京都市上京区御前○○上がる。
この住所地がいま私が住まっている住所、京都市北区○○○、という住所になります。

この住所地に住んでいたのは、私の祖母です。
西陣の織地、中二階4軒長屋の一角、祖母の住まい(借家)でした。
この場所で生まれましたが、両親は新所帯を壬生にもったので、父の実家での出産ということになりますね。

壬生での生活は、私、小学生になる直前までです。1953年の春まで、ということになります。昭和28年です。

自分の記憶にない処の記憶を辿る試みをやってるんです、っていえばかっこいいね〜^o^。。。
その私日記も-4-になりました。

ヒトの身体ってなんにもないところから、精子と卵子が結合して、そこから活動がはじまるん、生命の発生ですね。
その生命体のひとつが私という存在なんですね。
これは想えば想うほど驚異です。
なにが驚異かというと、その精子と卵子が結合して細胞分裂して、遺伝子のパワーでコントロールされて身体が創造されること、これ自体です。
お母さんのお腹とお別れして誕生するんですが、そのときの記憶はありませんのです。でも、きっとこのときの、狭い管を通って身体が押し出される苦痛なんかが刻みこまれるのかも知れません。生きるってことがけっこう苦痛であったりするんですから・・・きっと、このときの体験のせいかな〜

私のからだについて想うのは、むくむく、の感じです。
からだの中心はお腹周りとその下、股間です。
むずむず、もぞもぞ、お腹がうごめいています。
これの動きって自分の意思でどうにかなるものでもない。
勝手に動いているんです。
動物も植物も営みとしては同じなんかな、と思います。
ヒトを特別扱いしたがる気持はわからなくもないですが、特別なことだと思わなければ、動物も植物もよく似たもんですね。

再び、あえていいますが、私は誕生したときの記憶はありません。これは明確な意識というもののなかにおいて、です。

個体としてのヒト。そのヒトのひとつとして私。1946年4月28日に母の胎内から排出されてきたという私。生命体という私。私の誕生。

そうなんですよ、なんでこんな話に固守してるかといえば、仮説として、神様の存在とか、こころの存在とか、意識の内容とか、これまで教えてもらったり自分で学んだりしたことを、再度組みなおす作業を試みようとしているんです。
で、このこと自体が、ヒト個人の特質。
感覚の構造、こころの構造、記憶の構造・・・・
そんな見えるようで見えない奴を見ようとしてるのんです。

私生命の誕生っていうと私がお母さんのお腹から細い管を通って出てきてオギャって泣いた時をいうんですね。
この日が1946年4月28日という記念すべき日ですね。
この日から生命体ヒトとしていろんな権利とか義務が付与されるんですね。

そこから遡ること約310日前のことでした。
精子と卵子が膣の中で偶然の出会いをしまして抱き合ったんですよね。
結合しちゃったんです。
その瞬間ってのは覚えてないです、記憶にないです。

でもいろいろとイメージが湧いてきます。
皮膚に包まれたからだが大きくなってきて、
私、男だから女と抱き合いたいという衝動が突っ走ることがままあります。
その衝動の由来がどうもこの結合の瞬間にあるように感じるんですね。
皮膚に包まれた動く個体が感じるグジュグジュ感覚。
これって、たぶん小さな個体も大きな個体もヒト個体も
そんなに変わらへんのとちゃうやろか、と思ってしまいます。

じゃ〜動かない個体、植物っていってる奴らはどうなんでしょうね。
光時計のなかで動く個体と同んなじように感じてるんと違うかな〜〜。
進化の歴史ってあるんですが、最初の生命体がバクテリアでしょ、それから、
それから、それから海の中での植物、動物・・・
それから陸地にあがった奴と海の中にいたままの奴らがいるわけでしょ。
そうするとご先祖さまのご先祖は、一緒ってことですよね。

苔の私、というタイトルをつけて、何を書こうとしてるのかといえば、
私誕生以前、つまりお母さんのお腹から出てくる前の私のことを書こうとしているんです。

ですから、これはフィクションです。作り事です、虚構です。
でもね、自分で気になってることなんです。
いったい自分って何なのか?
いったいどっから来たん?
いうまでもなくお母さんのお腹の中から来たんです。
結論としては、このことがあるんですが、
それだけじゃ物足りないんです、自分としてはね。

だから誕生以前の生成過程とか、その結合の瞬間とか、
結合以前の、私の存在とか、とか・・・
気になることを少し想像してみようと思っているんです。

だってね、神様とか精霊とかいうけれど、これも想像のことでしょ。
だったら想像して語りつがれてきた物語に、私の想像の物語も付け加えようってのが、魂胆なんです。

どんな話になるのか自分でもよくわからないんです、実は、ね。
ということなんです。
今日、とっても疲れてる!お百姓してきたせいなんです。
この疲れ感というのも、何故?
なぜ疲れってあるの?

快感があるのと同様に疲れもある。
このからだのこと自体です。

結合以前ってのはどんな状態で私っていたんやろな〜?
ここで結合っていうのは、精子が卵子に抱きかかえられることをさして言ってるんですが、
この瞬間の前のことです。

違う役割をもったヒト個体とヒト個体が抱き合っていい気持ちになって、
一方のヒト個体から精子ってのが放出されるんやね。

お魚なんてのは海っていう場所で、
一方の個体からたまごが放出されて浮遊しているところへ、
一方の個体がたまごに向けて生命の基をぶっかける。
そこでいっせいに受精しちゃう。
ヒト個体は、小さな海のなかで一個の卵子が奥の院にご在宅のところへ、
一方のヒト個体が門の前で卵子を放つ、
射精っていってますけど、そこでもう競争やね。早いもん勝ち!!
金メダルとった奴が勝利者ってところですかね!

気持いい〜〜っていったら伝わりますか?この瞬間!
双方気持ちいいんです、それが理想です。
双方がもう恍惚。
恍惚っていうのはどういう状態かっていうと、おぼろげで奥深〜い状態、
まったくの未分化状態、何もない状態、朦朧状態・・・
いろいろ表現できますけれど、からだの根っこから気持いい!!
ヒト個人の皮膚に包まれたからだにとっての最高の気分、とでもいっておきましょう。(老子21章参照)

ところで、この精子と卵子の元が何かっていう問題。
からだの中の物質によって作られる。
この物質は、皮膚に包まれた個体の外から摂取される。
個体の外にある物質は、個体によって作られる。
循環ですね、ぐるぐる回りのエンドレスです。
その元っていうのは物質宇宙にある物質が合成されたもの。
ということは、物質宇宙といってるなかで、生命をつくる基の物質が交換しあっててる・・・
ビッグバンのときから宇宙の総質量が同じだとすると、
もう私という皮膚に囲まれた私というヒト個体は、合成ですね。

話を戻して、私を創りだす精子と卵子は、
その先祖をビッグバンのときの物質の一部なんだ、
という基本認識がここに確定される。


ビッグバンが宇宙誕生の時だとすると、その誕生から私誕生までの総時間は約140億年といってますね。
それから遙かな時間が経って地球が誕生しますね。
私誕生の47億年ほど前のことだといってますね。

そのへんからですね、宇宙の元素によって生命の元が創られてくるんですよね。
ホントかウソか知りませんけれどね。
海が出来て光があってそこから生命が合成される。
生命の元になる物質が生成してきて活動が始まるんです。
不思議といえば不思議ですね。
私の根源がここらへんにあるんかな〜って思うと、
もうからだグチュグチュ感覚ですね。

個体ってのは発生しては消滅していくんです。
誕生と死のあいだの時間を個体として存在するんですね。
大元一緒で合成されて個体になって、
個体が解体されてまた大元のところで一緒になる。

それぞれの個体がそれぞれにこのことを繰り返しているんですね。
誕生と死の間を時間という目に見えないもんで区切っていきます。
すると、この生死の無数の繰り返しによって1946年4月28日の私誕生まで継続してきてる。
私も個体のひとつです。これをヒト個体と呼びます。

ヒト個体はエネルギーを必要としています。
お口から食料を入れてあげなければならないんです。
私の元素はお父さんの精子とお母さんの卵子を創ったエネルギー源です。
お父さんのお股にぶら下がってる睾丸って場所で、私元素が創られたんです。
この時点では私はまだ存在していないんですね。
存在してないですけれど存在になる寸前ですね。
でも、生存の最初の場所はお母さんの子宮のなかでした。

結合する瞬間って、あああぁぁ!!っていう感じでしたね。
なんとなくおぼろげに記憶があるようなないような、です。
<そこは真っ暗子宮の中、海そのものであった>
このときに絶頂感、恍惚感、気持ちよさを知ってしまったんでしょうね。
で、この感覚が何モノであるかというのは、わかんないな〜。
わかんないんですが、気持いい記憶だけが刻みこまれてしまったようですね。


<記憶・光・生・情・魔>という五つの幻想領域をイメージ化しようとして、写真と文章を使っての試み。
ビッグバンまで遡ってイメージを拡げてるんですけど、そこまで行っちゃうと別宇宙のイメージも湧いてくるな〜。

ビッグバンのとき姉妹が出来てんでしょ?
その姉妹の宇宙と私との姻戚関係ですね。
あれから140億年も経っているから生死不明、何処で何しているのかわからない。この判らないことへの宙ぶらりん感覚は辛いですね。

といいながら話は私の存在します宇宙の範囲にとどめておきます。

特異点1。
突然に生命となる瞬間。この瞬間までの私のこと、これがひとつの中心軸です。
それからこの私生命が消滅する瞬間。この瞬間以後の私のこと、これもひとつの中心軸です。
つまり、私存在そのものが無いところでの、私の存在についてです。

特異点2。
突然に生命となった瞬間以後、この世が私誕生としている瞬間までのことが、ふたつめの中心軸です。

特異点3.
こうなるとみっつめの中心軸は当然1946年4月28日から<いま>、常に<いま>までのことですね。

苔の私日記の大きな構成がここに見えてきたな〜。
つまりテーマは全体ですね。
生命体と生命体を超えて在るものの全体。
その入り口にいるんです只今の場所っていうのはね。
そのように認識いたしております有機体ヒト私です。

でその目的の根源で何が知りたいのかってゆうと<快感>のことです。<気持いい>ことの根源、<朦朧・恍惚>であります。
皮膚に囲まれた私個体のエクスタシーの研究とでもいいましょうか。<記憶・光・生>という上昇するエネルギー群と<情・魔>という下降するエネルギー群の全体ですね。

ヒト社会がそこへ行ってはいけません!とバリアーを張ってしまった向こう側へ行きたいんです、マジ。ふふん、です。

いま、ヒト生命体が誕生する瞬間についてイメージしています。
140億年が過ぎてきた大き〜な宇宙の時間と空間の中から私っていう生命体が誕生するイメージです。

特異点の第一は、射精・結合・受精する瞬間でした。
この瞬間を迎える直前の状態っていうのは、もうクラクラの快感そのものでした。この快感の深さってのが、私の中にある深〜い記憶の襞に刻み込まれているんです。

☆私の襞に刻まれた記憶☆

私は真っ暗闇の中におりました。
海のような中でゆさゆさと揺られておりました。
そこはからだ宇宙のなかのことだったんです。
たくさんの兄弟姉妹が一緒でした。
あんまり沢山できてしまったもんだから、私たち、
からだ宇宙の根源に向って出してくれって、信号を送ったんです。
そしたらお父さんっていうのが、血相穏やかにしてお母さんに向っていったんです。但し、この辺のことは真っ暗闇でしたから見えませんでしたけれどね。
でもゆさゆさと揺られて気持ちよかった記憶は甦ってきますよ。
なんていったらいいのでしょうかね、そりゃもう、朦朧のなかの朦朧でしたけれど、ぐんぐん気持いい感覚が埋め込まれていきました。
その瞬間だったんです、私たち発射されたんです。
からだ宇宙から飛び出したんです。
大きくてやわらかい門が開いておりましてね、そっから泳いでいきました。
門が開かれたからだ宇宙の中はまるで海そのものでした。
からだ宇宙は朦朧恍惚状態っていうんでしょうか、もう最高の気持ちよさでした。
そこで劇的偶然に巡り会ってしまったんです。
私を創りだす有機体卵子さんにきッ〜く抱かれてしまいました。
その瞬間でした、なんかもう眩しくってクラクラっとしてしまったんです。あの最高の気分を秘めてしまったのです。

☆私の襞に刻まれた記憶・終わり☆

その後、生誕してきた私はその瞬間を何度も経験します。
このときの情景は、はっきりと記憶にあります。
でも、あの瞬間の気持ちよさには、とてもじゃないけど到達してませんね。
あのからだ宇宙の中での気持ちよさ、最高のエクスタシー、そこに至らないもんだから、セッセセッセ、こねこねグリグリやっているんですね、きっと・・・
いつかはその極地に到達することを期待してるんですね。

記憶、光、生・・・

ヒト個体にかぎらず生命体ってのは、生きていくエネルギーのかたまりみたいなもんやな〜って思いますね。
私ってホメオスタシスっていってます領域にあります生命体なんでえすからです。
誰が名づけたモノなのか、これは皮膚に包まれた個体がその外・外界に対していつも安定するようにしていく機能、というか能力、というかエネルギーですね。
そんな力が備わっているんです。

あの結合、私存在の最初、強く抱きかかえられてしまったエネルギーってのは、これもう生きるエネルギーそのものでした。
私がヒト個体として存在するようになるまでって、けっこう気持いい状態でいました。
いつも朦朧としていましたけれど、悲しみなんて感情は知りませんでした。
知ってるのは恍惚状態とその境地へ入っていく寸前の半恍惚状態、エクスタシー寸前と最高のエクスタシーの領域でした。
どんどん分裂して分身になる瞬間のあの状態っていうのがそれです。
その感じです。あああぁぁぁ・・。・・
何回も何回もその絶頂をさまよいながら、早くでていきたいな〜って感じてましたね。
きっと、きっと外へ出たら、もっといいこと・いい気持ちに満ち満ちてる、という予測でした。
早く光のあるところへ出て行きたいな〜、

それから後の話ですがホンネでいえば悲しいことが多いでしたね。
でもホメオスタシスなんていう能力をつけてしまったからどうしょうもないじゃないですか、生きてくしかない。

私のヒト個体。皮膚に包まれた私というからだ。このからだがどこから出来てくるのかな〜という基本命題をもって、ああやこうやと言ってますけれど、これは消滅していくときの心構えのためかな〜って感じております。

ヒト個体が群生しているこの地球という天体のひとつに私というヒト個体が存在しているわけですが、このなかに「からだ」と「こころ」がある。
こころっていうのが実はどうにも訳判らん代物なんです。
といいながらも科学っていう領域では、着々と研究が進められていて、その概容を固定させ始めています。
記憶の生成過程なんかも解析してイメージCGに仕上げて説明してくれています(感謝)。
でもでも、これでもまだわからないですね「こころ」のこと、からだと並行してあるものとしての「こころ」です。

でもヒト個体「からだ」が無けりゃ「こころ」は存在しない、との立場を選択してしまうと、ああ悲しの不安にさいなまれてしまうんですね。そこで妙案、ヒト個体が生成誕生→消滅のサイクルにあって「こころ」は不滅・・・なんてイメージを生成させることで、ああ楽しハッピー!なんて人生を創っちゃう、そんなお遊びも必要かな〜って思ってしまって、苔の私日記、もう12回シリーズしてしまったですね。

生き物、有機体、ヒト個体。
これの最大関心ごと、つまり欲求の矛先は、食べることとセクスすることに向います。
寝ることは関心もたなくても寝てしまう。衣服を身につけることは食べることに優先する、って思うことができるのは、食べものが手にはいるからですね。

すると根底は、からだ維持のためのエネルギー確保、それから仕組まれた上昇エネルギー、生殖。
これふたつやな〜と確信していまして、そこからの出発なんです。

その上昇エネルギーにさいなまれている私がここに存在しております。生きることの気持ちよさを確保したい!その思いですね。
からだが芯から疼いているような時って気持いいですよね。
もっともっと、もっと気持いい!ところを求めちゃいますよね。

求めちゃダメっていうことを教えてきたこともありますが、いまなら、求めてヨシです。
未来は快楽、日々祝祭!!
そのためにも全体を掴みなおしているのです。

苔の私日記 2004.8.24〜2004.9.10


































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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